と、そこまで言いかけて『楓』は僅かに目を見開いて言葉を中断した。また新たな事に気付く。
自分が死んでも、誰も悲しまない。誰にも関係無い。だから、捨て身の剣を振るえた。何かを失いたくない訳でも、誰かを護る訳でも無しに。ただ、自分の命などどうでも良かっただけだった。
自分に護りたい者など、居ないと思っていた。だが──
自分を心配してくれていた姉も、また逢おうと言ってくれた兄も。
そして、「自分」を受け入れてくれた楓も、今なら失いたくないと素直に思える。
何故ならその者達のおかげで、今自分はこうして「立っていられる」のだから。
そう言って『楓』はいつもの不敵な笑みを刻んだ。そしてさらに言う。
しっかりと青龍の目を見て、『楓』ははっきり宣言した。曇りが全て消え去った、澄んだ瞳で。
やがて、それを見詰め返していた青龍はその双眸を閉じ、『楓』に言った。
青龍の目が、心持ち開かれる。今迄感情の読み取れなかったその瞳に、何かが宿っていた。
彼は、飽くこと無く空を見上げていた。一面漆黒に塗り潰された空に君臨する、地獄門を。
──あれから、どれぐらいの時が流れただろうか。十年……いや、もっと昔かもしれない。その長い年月を、たった一つの想いだけを胸に生きてきた。
(もう少し……もう少しで、私の長年の願いが完遂する)
地獄門を解放すれば、人間を滅ぼし、新たな世界を創世できる。そして──
彼の思考を突然、背後からの声が遮った。予想もしていなかった事態に、さすがの彼も言葉を失って即座に振り返る。
そこに立っていたのは、つい先程『負の力』で撃った筈の金髪の少年だった。決して五体満足とは言えぬ体ながらもしっかりと大地を踏み締め、刀を片手にじっとこちらを見据えている。
こちらを挑発するような『楓』の言葉を無視して、彼は眉を潜めた。
彼自身が、一番よく知っていた。『負の力』がどれほど驚異的なものか。その威力は、四神とて精神や人格自体が破壊されるほどのものである。それに加えて、『青龍』といってもまだ若すぎる目の前の少年の精神力で、跳ね返せるものでは無い筈だった。
しかし、『楓』はいたって平然とした風体で顔をしかめてみせる。
それを半ば呆気に取られて眺めていた彼は──嘉神は、やおら目を細めて口の端を吊り上げる。その瞳を静謐な狂気が彩っていた。
言って『負の力』を纏った刀を構える嘉神からは、『楓』を遥かに上回る殺気が現れ始める。
それを肌で感じながら『楓』は目を閉じ、自分にやっと聞こえるぐらいの声で己に言い聞かせる。
勿論最初は、師の仇討ちの為にこの男と闘っていた。だが、青龍に逢って自分には護るべき者が居る事に気付き──そして考え、気付いたのだ。自分のやるべき事は、そんな事ではないと。
(そんな事をしてもお師さんが生き返る訳でも無い……それに──)
この『力』も志も、自分は「これから」の為に師から継いだ筈だ。それを過去の傷痕をごまかす為に使って、はたして師が喜ぶだろうか。それより、大切な者の──果てには人類の「明日」の為に『力』を使った方が、背負うものは大きいけれども遥かに良く思える。
(四神の『力』は守護の力……『青龍』、か。こういう意味かもしれねえな。──お師さん……この『力』、これからを護る為に使う事があんたの弔いになると信じるぜ!)
不思議と軽くなっていく心に小さく笑みを刻んでから、『楓』は目を開き、言う。
いつからか。その瞳には紅玉の原石に似た、妖しの輝きが宿っていた。
いや──もしかしたら、それこそが彼の持つ常人には無い紅の瞳の、本来の光輝かもしれない。
その瞳と声に強い意志を秘め、『楓』は目の前の男との決着の為──そして己自身が今を生き抜く為、再度闘いにその身を投じていった。