言うや否や、嘉神は何時しかと同じように片腕を天に掲げる。すると、
ゴゴゴゴ……
大地が唸りを上げて大きく揺れ、大気は何かを恐れるかのように激しく震え始めた。
あまりに突然の変動に『楓』は危うく転びかけるが、何とか平衡を保ち眼前の男を見据える。
そう言う嘉神の瞳からは、先程までの虚ろは完全に姿を消していた。
だがそれは同時に、『楓』の目の前にいる男がある決断を下した事を示す。つまり──自らの死を。
それに気付いた『楓』は喉が痛むのも構わず、制止の声を張り上げた。
最早自分にあの男の決断を揺るがす事は出来ない事も、本来ならば黙って見届けるべきだという事も分かっている。それが、同じ剣士としての礼儀だと言う事も。
だが──人が死に行くのを、黙って見届ける気にだけはどうしてもなれなかった。
『楓』は荒れ狂う瘴気に耐えながらじれったそうに歯噛みすると、なおも叫び続ける。
激情で双眸をさらに赤く染めた『楓』は、嘉神を強く睨み付けた。が、
無言の嘉神と目が合った次の瞬間、その激情は突如として姿を消す。
一瞬──『楓』は嘉神の瞳と表情に、数瞬前までは見えなかった「何か」を見たような気がした。
その目を見詰めたまま硬直した『楓』に、嘉神は最後の言葉を呟く。
……そして。次の瞬間には、前と同じように純白の閃光が『楓』の視界と意識を埋めた。
ただ前回と違う事といえば、これが一人の男との別れとなる事ぐらいだった──。
──不思議、だった。自分に、まだこんな感情があった事が。
何故、こんなにもあの少年の台詞が心に引っ掛かっているのだろう。何故、こんなにも心が揺れるのだろう。それ以前に「自分」の心は、既に無くなったものと思っていたのに……。
結局、自分は心を捨て切れなかった。あの願いだけに、本当に全てを懸ける事が出来なかった。
気付くのが──思い出すのが、遅すぎたのかもしれない。それはずっと昔に気付いていた筈なのに、何時の間にか忘れてしまった。自分が「人」である事、そして自分が、あまりに「弱い」事を──。
今のように、自分の中から何かが抜け落ちていくのを止められなかった『あの時』に、嫌というほど味わった筈なのに。何故、自分は忘れてしまえたのだろう。
無意識の内に──自分は自分で、本当に必要なものを失ってしまったのかもしれない。
(まあ、良い。どうせ……私はここで朽ちるのだ)
生への執着など、もう無い。いや、元からあったかどうかすら疑わしい。
大切なものを自ら失い、己をごまかし、本当に必要なものを素直に求めようともせず──。
分かっていた、筈だった。一番愚かなのは、何よりも自分なのだと。
何故かズキズキと響く頭の痛みに、楓は重い瞼を上げる。次に楓が意識を回復させた時は、未だ周りは薄暗い風景だった。
だが、それが死後の世界でも、あの『負の力』の幻の中でもない事はすぐに分かる。自分が、あの廃墟と化した洋館の残骸に背を預けている事も。
ちゃんと、自分の意識も体も「ここ」に在るのだ。何故、辺りが暗いのかだけは分からなかったが。
(まさか……地獄門が完全に開いた……?)
一瞬、寒気に似た考えが脳裏を過ぎるが、楓はすぐにそれを否定する。