ここは、深い闇の中。周り全てが漆黒に塗り潰され、光明は一筋も無い闇。その虚ろなる場所に、彼は立っていた。が、確かな足場があるわけでもなく、どうも不安定である。
しかも視線を巡らしてみると、闇が生きているように胎動しているのが分かった。それと共鳴しているように、彼の心も異常に沸き立っている。──いや、むしろ静まり返っていたというべきなのかもしれないが。
(ここは──?)
漆黒だけが在る上方を見上げ、彼は胸中で呆然とごちた。何も無い。と──
「──?」
前方から何かが聞こえた気がして、彼は視線を前に戻した。しかし何も見当たらず、ただ闇だけが広がっている。だが、
(なん……だろう。この胸のざわめきは……)
視覚ではなく、もっと別の感覚が『何か』を感じている。──在る。何かが。彼は何故か理不尽な疼きを覚える頭を、片手で押さえて目を凝らした。だが、視界に引っ掛かるようなものは──
「ぐあああっ!!」
「! あっちか!?」
遠くから男の苦鳴を聞き取り、彼は反射的に駆け出す。
(嫌な臭いがする……?)
疼きが強くなり、思わず顔をしかめた。この先で何かが、起こっている。答えの見つからないまま、彼は走り続けた。──と、
「!?」
不意に彼の瞳に映ったのは、傷を受けて地に倒れ込んだ人間の姿だった。己の血で染まったかのような紅い髪に、その狭間から彼の見知った──あまりに見知りすぎた顔立ちが覗く。
「兄、さん!? 大丈──!!」
即座に駆け寄って声を掛けるが、それは途中、喉元で凍り付く。男は──兄は、胸板に刀でえぐったような風穴を開けられていて、既に息をしていなかった。その凄惨さとむせ返るような血臭に顔を歪め、彼は声にならない悲鳴を上げかけ、
……ポッ……
すぐ近くで、何か滴が落ちたような音がして、彼は身を強ばらせてから辺りに視線を巡らせた。そこで初めて、この空間にもう一人誰かがいたのだと知る。
──が。
その者は片手に鮮血のしたたる刀を携え、頬に付いた血糊を平然と拭っていた。そして凍り付いている彼の視線に気付くと、薄い笑みを浮かべてこちらを見返す。その瞳には、はっきりと底冷えするような狂気が宿っていた。
(ま、さか……)
声も上げれぬまま、彼は戦慄する。その目線は彼の前に立つ、血に染まった瞳の者に釘付けになっていた。自分と、同じ姿を持つ者に。
兄を殺したのは、もう一人の──
「っ!!」
彼は大きく目を見開くと、これ以上はないという程の速さで『跳ね起きた』。そして肩で荒い呼吸を繰り返しながら、僅かに震える片手で頭を押さえた。黒い髪が一房、はらりと頬にかかる。
(『また』……あの夢……)
激しい呼吸と動悸を抑えつつ、彼は唇を噛んだ。まだ幼さの残る顔には、驚愕と焦燥の混じったものが浮かんでいる。
初めてでは、なかった。あの夢を見たのは。というより、最近は特に見る回数が多くなってきていて、段々何かがはっきりとしてきている。だが、決まって──夢の中の自分が、いつも同じ行動を取っているのも気になる。彼が苛立ちを憶えるのも、当然だった。
そして今も脳裏にちらつくのは、あの紅い目と冷たい狂気を帯びた薄い笑み。そして兄の──
(いったい──!)
無理矢理に記憶を引き出すように、あるいは記憶を押し戻すように彼は──楓はきつく目を瞑る。
すぐ横の障子からは薄日が差し、夜明けを告げていた。