(あの時と……同じだな)
五年前、あの男を退かせ師の最期を看取り、そして……楓の刃を受けたあの時と──。ただ、
(いや、違う……あの時は、心が虚しいだけだった)
今、心に虚しさは無い。むしろ、穏やかな感じですらあった。敗れはしたが、悔いは無い。それが、彼の心の静けさの原因だろう。
内心自嘲気味に笑い、守矢は改めて楓を見やった。楓は下げていた刀を上げ、
──チンッ
「……!?」
目を丸くする守矢を尻目に、その刀を拾い上げた鞘にしまい悠然と見下ろす。
「なぁに、やってんだよ。腰でも抜けたのかい? 手でも貸そうか?」
そう言って何気に楓は手を差し出した。それを無言で見やってから、守矢はなんとか自力で上半身を起こして口を開く。険悪な、というより彼らしからぬ唖然とした口調で。
「何故、止めをささない?」
「何故……ねえ」
守矢の問いに、楓は手を引っ込めて気だるげに半眼で言い返す。
「俺はあんたに本当の事を聞くために、ここまで来たんだ。正直言って──」
そこで不意に言葉を切り、楓は深く嘆息した。そして続ける。
「最初はお師さんの仇を討つ為に追っていたから、あんたを殺る覚悟もしたけどな。今は仇であんたを追ってきたつもりは、もう無いぜ。だから、別に俺があんたを殺る理由なんて無いのさ」
「…………」
しゃあしゃあと言いのける楓を、守矢は黙って見詰めていた。その瞳には僅かな驚愕や戸惑いが覗く。楓はそれをちらりと見てすぐに悟ったか、肩を竦めて守矢に背を向けた。
「──と言っても、あんたのことだ。本当の事は言わないつもりなんだろう?それだったら……それでも良い。俺は俺で、自分の信じる道を行くだけだ。ここまでやりあっといてなんだが、これ以上無理に聞くなんて無粋な事はしねーよ」
「……これから、どうするつもりだ」
珍しく、守矢が関心の声を漏らす。その言葉に楓はしばし黙っていたが、振り向く事無く答えた。
「『朱雀』の嘉神って奴を倒す。どうやらお師さんの仇としての本当の相手は、そいつみたいだしな」
「……!」
先程までの口調は消えて、神妙な口調での楓の言葉に守矢は落としていた視線を跳ね上げる。それは、いつのまにか肩越しに振り向いていた楓の視線と交わった。楓はにやりと笑ってみせる。
「やっぱり、そいつか。 じゃあ、俺があんたの代わりにぶった切ってくるから安心しな」
「……無理だ。今のお前でも、奴には届かな──っ!」
無理矢理に身を乗り出し、全身を駆けた激痛に守矢は顔をしかめて言葉を中断した。そして未だ流血の続く肩口を、片手で押さえる。
「お前の強さを認めていない訳ではない。だが……奴の強さは、人知を遥かに超えている。下手をしたら──いや、下手をしなくとも死ぬだろう……。行くな……楓」
改めて繰り返すと同時に、守矢は自分の決意を確かめた。これ以上、巻き込みたくは無いのだ。もう、これ以上──失いたくは、無い。自分が一人で師の仇を追っていたのは、その為でもあったのだから。
しかし、楓の瞳も揺らぐ事を知らない。
「……らしくないぜ、そんな弱気な科白は。……それにな。あんたの想いも分かるが、これは俺が決めた事だ。たとえあんたが止めても、それが死に関わるようなことでも、思い直すつもりは無いぜ。死にに行く訳じゃないしな」
有無を言わせぬ口調で言い返し、楓は守矢から視線を前方に戻す。そして、さらに告げた。
「『あいつ』はあんたとやりあう時、迷いがあったけれどそれでも刀を抜いた。──それは心のどこかで、自分の想いの強さをあんたに分かって貰いたかったからだ。あいつも、自分の意志でここに来たんだ。この現実はあいつ自身が選んだんだぜ、『兄さん』」
「…………」
皮肉では無しに、楓は守矢に──兄に言い放つ。そしてそれを聞いた守矢は、溜め息を吐いて瞼を下ろした。
それが安堵の溜め息なのか、それとも諦めの溜め息なのか。楓には分からなかった。しかし彼は再度口を開く事無く、守矢の前から去っていった。
「…………」
守矢と別れ、竹林を抜ける所で楓は足を止めて夜空を見上げた。既に深夜らしく、月はかなり傾いた方角にある。楓の瞳に、赤い月が映る──と。
突如、楓は深く息を吐いたかと思うと、そのままフラッと近くの竹に背を預けて俯き、思い出したかのように荒い呼吸を始めた。その額には、何時の間にか無数の汗の珠が浮かんでいる。腹の刀傷に手を当て、楓は胸中で呟いた。
(もう……限界か)
その腹部の深い傷が示すように、今の楓は守矢と同等かそれ以上の傷を負っている。先程までは、何とか精神力で気丈に保っていたに過ぎず、本来ならば立っているのもやっとの状態だったのだ。まあ、あれだけ無茶な闘い方をすれば当然と言えるのだが、それに加えて彼の体力を──今でも──削いでいくもっとも大きな因が彼自身の中にある。それは──
楓は舌打ちすると、目の前に掛かった前髪を掻き揚げた。
「ったく……あんぐらいでバテちまうなんて、情けねえな」
自分に毒づくように呻き、楓は顔を上げて傷口から手を退ける。
分かっていた。自分には『時間が無い』と。しかし、それでも兄には言わなければならないことが──分かって貰いたかったことが沢山あったのだ。
今言わなければ、兄を追ってきたことが無意味になるのでは──そんな想いが、自分を突き動かしたのだろう。
(楓……お前も、そう思ったんだろ……?)
もう一人の自分に胸中でごちて、翳した血濡れの手の指の間から月を見やっていた楓は双眸を閉じる。そのまま崩れ落ちる体と共に、その意識もいつのまにか無明の闇に落ちていった。あるいは、還って行ったのかもしれないが。