辛うじて顔を上げる『楓』の前に音もなく嘉神が降り立つ。氷のようにただ冷たかったその瞳に、いつのまにか隠しようのない狂気が姿を現していた。
相変わらず気を逆撫でさせる揶揄の言葉に、『楓』は今迄にないほど凄絶に嘉神を睨む。そして感情の赴くままに口を開きかけた。──刹那、
ズグン──
二度目の衝撃が、来た。
一瞬、自分の体に何が起こったのか理解できなかった。ただ壁に背を預けていただけなのに、鈍い衝撃が視界を揺さぶったのである。
しかも、今の衝撃は──自分の身体の『中』から来たように思えた。
異常な程に呼吸が跳ね上がり、動悸も一気に激しくなる。──いや、むしろ「異常」だった。これは、体力の減退によって呼吸を整える事すらままならなくなっただけが、原因じゃない。
(あの『力』のせい、か……?)
妙だと気付くべきだった。あの不可視の『力』を受けたとき、「大した痛みが無かった」事に。実際に今も、激しい痛みではなく、重い苦しみが彼を苛んでいた。息をするのが苦しい。
病のそれに似た妙な呼吸を繰り返しながらの『楓』の問いに、嘉神はからかうように逆に問う。それに対し『楓』は強かに舌打ちした。
だが、嘉神の言葉通り──その問いの答えはすぐに彼自身に現れた。
ズッ──
突然。その視界が大きく揺らぎ、血に濡れていくように真っ赤に染まっていく。
視界だけでなく、意識までが完全に赤い闇へと堕ちる前に、嘉神の言葉が『楓』の耳に届いた。
(! そうか、さっきのは──)
ようやく『楓』は気付いた。あの不可視の『力』、あれは……人の心を蝕む『負の力』だと。
だがそれに気付いた時には、もう彼に時間は一秒たりとも残されてはいなかった──